中国出張
先日先輩に聞かれて、何度目か分からないくらいの話しをしたので、備忘録として書き留めておこうと思う。
僕は、会社の出張で中国に2回、スペインに1回行っている。
そして、今回話すのは2回目の中国出張の時の話である。
1回目の中国出張は上司の鞄持ちだったが、2回目は主担当としての出張だった。
主担当として、新製品の工場生産の立ち会いをする事になった僕だったが、既に大きな問題を抱えていた。
それは、自分の担当部品が原因で、工場が止まる可能性である。
日本にいる時に気付いていたが、上司に相談したところ、
「なんとかなるっしょ!つーかまだまだこれからっしょ!」
ということで、一か八か、そのまま出張に行くことになったのだった。
そして、その出張には「パワハラさん」と呼ばれる人も同行していた。
叱責を受けないように当たり障りなく立ち回りつつ、一か八かのストレスは、確実に僕の身体を蝕んだ。
そして、先行で確認する機会が訪れた。
工場で流動させる前に、問題がないかを確認するのである。
その時の僕は、「怒られたら最悪殺るしかない」と思うまでに追い詰められていた。
そして、運命の日。
何も問題は起きなかったのである。
正確には、小さな問題はあったが工場が止まるようなトラブルは無く、とにかく怒られることもなかった。
その日の仕事終わりには、意気揚々とお酒を飲みに行く僕だったが、翌日から下痢が止まらなくなった。
食欲も無いし、せめて水でもと思っても1時間くらいで尻から水が出るのである。
結局、日本から持ってきたウィダーだけを飲んだ僕は、尻からはほぼ水を垂れ流すマシンになっていた。
時折、緑のうんちも出ていたが、後から確認するとこれは宿便だったようで、ゲリの極み経験者あるあるだった。
そして下痢2日目に突入するも症状は改善されなかった。
その頃には、#2000くらいの紙ヤスリみたいな中国のトイレットペーパーによって、僕の桃尻は破壊されていた。
流石に、出張責任者に相談し、病院に行かせてもらうことになった。
中国の大きな野戦病院みたいなとこに連れてかれた僕は38℃越える熱があった。
様々な検査を行い、結果が出たとのことで診察室に呼ばれた。
通訳「ラオユエンだそうです。知ってますか?」
僕「分かりません。」
通訳「ちょっと待ってくださいね…」
と言って通訳から差し出されてスマホには「虫垂炎」と書かれていた。
要するに盲腸である。
通訳「お医者さんがここで切るか、散らすか聞いてます。」
僕「日本で切ります…」
ということで、半ベソで会社関係者に電話しまくり、翌日の帰国が決まった。
何か笑ってる人もいた気がするけど、もう僕にはどうでも良かった。
その後ホテルに帰って寝ていると、チケットの手配をしている旅行会社から電話があった。
旅行会社「もし機内で体調崩して途中で飛行機を降ろした場合、損害賠償が請求される可能性があります。その場合、億単位となりますが、保険でカバーできないので自己負担です。乗る前に少しでも体調に不安があったら、絶対に乗らないでください。」
僕「頑張ります。」
ということで、翌朝。
二日前からまともな食事が取れず、さらに旅行会社の脅しにしっかりビビった僕は、朝から舌を濡らす程度しか水分が取れず、死ぬ寸前の力石徹みたいになっていた。
無事空港に着いても、ラウンジの隅っことトイレを、往復して過ごしていた。
そして搭乗の時間がきたが、何もなく3時間くらいのフライトが終了。
無事日本に降り立った。
到着は夜遅かったが、空港まで奥さんが迎えに来ており、その日のうちに家に帰ることができた。
そして、パンツにはしっかりうんちが付いており、廃棄することになった。
奥さんは僕のオーダーに合わせてお粥を作ってくれていたが、この時の薄味と安堵感は今も思い出すことができる。
そして、翌日。
近所の総合病院の救急に行くことになった。
受付で呼ばれ、診察室に入ると若い女性の研修医とベテランぽい男性医師がいた。
一通り経緯を説明すると「緑の便ですか…」と男性医師が緑の便に興味を示した。
そして研修医と二言三言会話をすると僕にこう言った。
男性医師「お尻見せてもらうんで、お尻出して壁の方に向いてください。」
この時の僕はとにかくパニックになっていた。
それもそのはずで、「盲腸で手術なんだ…」と思っていたからである。
注射すら怖い僕、と言えばその時の心理状況を察してもらえると思う。
そして医師にお尻を差し出すよう言われた僕はこの姿勢をとった。
ベッドの幅からいって、絶対におかしいとは思ったけど、ただでさえ頭が不足気味の僕がパニックになっていたのである。
人より大きい身体を折り曲げ、おでこを壁に擦り付けながらバランスを取っていた僕を見て、男性医師は半笑いになりながら、「横になってもらって良いですよ」と言った。
そして、まず研修医の指が入ってきた。
ちなみに感情は無かったし記憶もない。
おそらく、尻の防御力が無く、ストレス無く指が入りすぎたためと思われる。
次の男性医師の指が入ってきた。
その後男性医師は二言三言研修医と会話を交わすと、研修医の指はもう一回入ってきた。
この時ばかりは「おかわりしてんじゃねーよ」と心の中で突っ込んでいた。
そして、他にも様々な検査をし、再度診察室に呼ばれた。
結果は「ウイルス性胃腸炎」だった。
「盲腸は腫れてますけど、全体的に晴れてますし、手術の必要はありません。」
安堵した僕は、すぐに会社関係者に電話した。
皆んなに笑われたが、僕は心の底からどうでも良かった。
帰り道タバコに火をつけた僕は、奥さんに食べたい物を聞かれ、「丸亀製麺」と答えると、丸亀製麺では全力で食べた。
テンション的には久々にシャバの飯を食べる囚人と同じような感じだった。
ということで、とんでもない長文になってしまったが、この時助けられた大事な事がある。
それは旅行保険の存在である。
皆んなも海外行く時は旅行保険入ろうな!おじさんと約束な!
ちなみにこの文章は、明日の従兄弟の結婚式に参加する為に、帰省中の電車内で書いている。
この文章を結婚する従兄弟に捧げたいと思う。
仮面ライダー BLACK SUN見たよって話
どうも。
「怪しげなエスパー」こと僕です。
皆さん御存知の通り、僕はAmazonの犬なので当然プライム会員です。
ということで、10/28(金)から配信の「仮面ライダー BLACK SUN」を29日と30日の土日を使って一気見してやりました。
さて、普通なら感想を言いたいところだけど、見終わってからこれを書いている今まで、感想というより不思議な想いが湧いていて、この想いを誰かと共有したいけど、残念ながら共有できるような友達は僕にいないので、この「便所の落書きみたいなブログ」に備忘録がてら残しておこうと思います。
◾️僕と仮面ライダーBlackの出会い
まず前提として、僕は仮面ライダーが好きなまま大人になってしまった、アダルトチルドレンです。
どのくらいのレベルかというと、南斗のアイツくらい。
そんな僕は今まで「一番好きなライダーは?」と聞かれたら、「BLACK」と答えてきました。
正確には「BLACK(RX)」だけどそこは気にしてはいけない。
それと、今思い返してみると、「一番好きなライダーは?」なんて質問はされたことがないけど、そこも気にしてはいけない。
とにかく、一番好きなライダーはBLACK(RX)なのである。
昭和の終わりに始まった仮面ライダーBLACKだけど、僕は一応平成生まれなのでリアルタイムで見てたわけではない。
正確な年齢は不明だけど、きっと幼稚園に入る前くらいの時、近所のサミットに母親と買い物に行くと、帰り道にレンタルビデオ屋に連れて行ってくれることが多々あった。
その時の母親は、何故かXファイルにハマっており、暇さえあればXファイルを見ていた。
お陰であのBGMは今もトラウマとして僕の心に刻まれている。
レンタルビデオ屋で僕は決まって戦隊物か仮面ライダーのビデオを借りていた。
あと何故かヘルレイザーのジャケットを見るのにハマっていたが、そんなことはどうでもいい。
歴代仮面ライダーはほぼ全て見たはずだけど、その中で一番好きだったのは仮面ライダーBLACK(RX)だった。
どれくらい好きだったかというと、
・劇中のバイクがスズキのガンマだと知ってガンマに乗る
・倉田てつをに会いにステーキ屋まで行く
・劇中の車、RXの由来を聞いてマツダのRX-7に乗る
・就職先を選ぶ理由になる
といったザマである。
車とかバイクとか、知ったのが先か乗ったのが先か、いまいちハッキリしないが、話しを先に進めよう。
とにかく仮面ライダーBlackが好きなのは伝わったと思う。
ディケイドにBLACKとかBLACK RXが出るときにもブチ上がってたし、リメイクの話しを聞いてもブチ上がっていた。
その時、四六時中頭の中では「キングストーンフラッシュ!」って言ってたくらいにはブチ上がっていた。
なお、どちらも、僕界隈で僕だけ盛り上がっていたのは言うまでもない。
◾️で、BLACK SUNどうだったの
まず、見始めてすぐに「そうじゃないんだよ!」と思った。
具体的には、「リアルな仮面ライダーを見たくない」っていうのが一番だった。
通常、仮面ライダーBLACK、BLACK RXを通ると、次に待つのは真・仮面ライダー、仮面ライダーZO、仮面ライダーJ、と平成ライダーの序列から完全に省かれ、無かったことになっているシリーズなんだけど、僕はZOで挫折している。
何故なら、単純に気持ち悪かったからである。
想像してほしい。
意気揚々と、レンタルしたVHSをデッキに差し込んで、「次はどんなカッコいいライダーなんだろう」と胸を踊らせている少年が、仮面ライダーシンを見る様を。
こんな酷い話、今ならきっとクレーム祭りである。
ついでにもう一つ想像して欲しい。
傷心の少年が、その心の傷を癒すために、手に取ったVHSをデッキに差し込んで、「ZOは普通のライダーっぽかったぞ」と思っていたらドラスを見る様を。
こんな、子供の心を折るには充分な体験した結果、「太陽の子」こと僕は「リアルな仮面ライダー」に拒絶反応を示すようになってしまった。
ということで「うわ、リアル系かよ。意識高いな。」と思ったのが最初の方の印象だった。
で、最後まで観て、結局どうだったのかというと「めっちゃおもしろかった!」とはならないものの、つまらない訳ではなく、一番近い感想は「めっちゃ好き」という感想だった。
面白かったんだけど、映像から目が離せなかったり、腹抱えて笑ったり、すごい面白かったわけではない。
かといってつまらないわけではない。
すっきりするわけでもない。
突っ込みどころは山ほどある。
全体的に音楽もビジュアルも良いけど、めちゃくちゃすごく良いと思わない。
でもめちゃ好きだった。
小難しい話しがあったり、メッセージ性があったりしたけど、きっと仮面ライダーを好きな人が、良いものを作ろうとしたんだろうな、って言うのが伝わってきたから、好きだと思ったのだと思う。
すごい不思議な感情で、誰かと共有できるものかも分からないけど、僕のBLACK(RX)が好きな気持ちが、綺麗に回収されたと感じたし、好きで良かったなと思える作品だと思った。
前置きの割に感想のボリュームがとんでもないことになっているが、自分でも言語化しにくい感情なので仕方ない。
とにかく観ていない人は観た方が良いと思う。
こんな便所の落書きブログを見てる人はいないと思うけど。
僕から以上!
○○の時に頭に流れる曲の話
早速だが、朝の日テレ系情報番組の「ZIP!」を御存知だろうか。この番組は曜日によりキャスターが違うこを特徴としているが、水曜日のキャスターは名サウスポー工藤公康の息子で俳優の工藤あすかが担当している。
そして、工藤あすかが毎週「元気がでる」というテーマに沿ってお気に入りの音楽を紹介するのである。
ということで僕もテーマに沿って音楽を紹介したいと思う。そのテーマだが「腹痛を我慢している時に頭の中に流れる曲」である。
その曲は、RIZEの「Why I'm Me」である。30歳よりちょい上なら聴いたことがある人も多いと思う。では理由を説明する前に、動画と頭の中に流れる部分の歌詞を紹介したい。
"俺は何度も諦めかけた だが強く成り立ってたんだ"
RIZE「Why Im Me」より抜粋
歌詞のまんまではあるが、腹痛がひどい時は「もう諦めて楽になろうかな」と何度も心が折れることがある。そんな時、この曲は僕を勇気付けてくれるのである。「いやいや、トイレ行けよ」という人もいるが、それはナンセンスである。バイク通勤で遅刻寸前の時に腹痛が発生したことを想像してほしい。トイレも簡単に見つからないし、トイレに行ったら遅刻してしまう。「いやいや、早く起きてトイレ行ってから家出ろよ」という人もいるが、それはナンセンスだし、正論は人を傷つけることを自覚してほしい。
とにかく、僕は何度も諦めかけたし、この曲のお陰で強く成り立っているのは事実である。皆さんも腹痛を感じて我慢をしなければならない時はこの歌詞を思い出してください。
なお、トイレに間に合った時は、開放感と、全てに対する感謝を感じることがあると思う。そんな時は下記を叫んで欲しい。
"あえて言うと感謝の気持ち
オレを支えてくれたジモティーズ"
RIZE「Why Im Me」より抜粋
地元の知り合いに助けてもらった記憶がない人も、ここは一つ、取りあえず叫んでおこうか。
僕が中学受験生だった時の話
20年ほど前のこの時期、僕は中学受験勉強中の小学六年生だった。入試が2月の頭だったので、この時期は最後の追い込みをしていた時期だった。現役の小学六年生もまた、追い込みの時期だと思う。彼等・彼女等に届くことは無いと思うが、僕の中学受験の思い出を話したいと思う。というか、今回話すこと以外に記憶が無いのはここだけの話しである。
まず初めに、中学受験に至った経緯を紹介したいと思う。
僕は普通の家庭で育ったが、中学受験は親の薦めでは無かった。父は中学受験を経験しておらず、「中学の間は色んな人に触れた方が良い」と否定的だったし、母は中学受験を経験しており、「小学校のうちは遊ばせたい」と同じく否定的だった。
しかし、小学五年生の僕はスポーツ万能で勉強もでき自信の塊だった。更に、小学三年生で始めた野球では地域ではそれなりに知られる存在となり、「俺は足を引っ張られてる」、「俺が9人いたら東京で一番」と公言するという、ややイタイ存在だった。現在も治療中の中二病を、僕はこの時には発症していたのである。
そんな僕は「強い学校に行くため」に中学受験を思いつき、両親はそんな僕に中学受験を許可し、受験することになった
ということで紆余曲折を経て、受験日を迎えた僕。2月1日には第三希望の学校の受験をした。割と安全牌だったため、特に記憶は無い。その日の夜には、ネットで合格を確認することができた。これで気を良くした僕は、2月2日に第一希望の学校の受験をした。これも特に記憶は無い、と言いたいが少しだけ記憶がある。その日は四教科受験だった。国語は得意だったので難なくこなし、算数は苦手だったができないなりにこなし、社会を迎えた僕。その時に出た問題は、「東南アジア」と「エビ」と「河川」がキーワードで、「植物の名前」を答える問題だった。その時、僕の頭に浮かんだ画像はこれだった。
参照:http://www.hokusetsu-ikimono.com/okinawa/manglobe/index.htm
しかし、名前が分からなかった。正確には「マング」までは分かっていたが、その先が分からなかった。「マングース」は浮かんだが、それが動物の名前で、間違っていることは分かっていた。僕は、焦りながらもその問題を飛ばし、他の問題をこなしながら思い出すのを待った。しかし思い出せないまま、試験は終了間際を迎え、僕は泣く泣く「マングース」と記入し試験を終えた。その後、理科を迎えたが記憶は全くない。受験会場を出ると、別室で待っていた母親と合流し、電車に乗った。電車に乗ると、近くにいた受験生が友達同士で話している声が聞こえた。
A「あの問題できた?」
B「あれ?マングローブだろ?」
僕は顔から血の気が引くのを感じた。すぐに母親に伝えた。
僕「母ちゃん。俺落ちたかも。」
母「何で?」
僕「マングローブが出てこなくて、マングまで分かってて、マングースって書いちゃった。」
母「・・・切り替えていこう。」
ということで母と絶望している僕は、新宿のさぼてんで昼飯を食べた。トンカツを食べていると、何だかどうでも良くなってきたことは覚えている。空腹が満たされれば、人間はどうでも良くなるのである。
翌日の2月3日には第二希望の学校を受けた。たまたま一番後ろの席だったので、列全員の答案用紙を回収する役目だった。国語はともかく、算数は自分ほど空欄が多い人はいなかった。試験会場を出て母親と合流すると、2日に受けた学校は合格してるとのことだった。喜ぶ母親を後目に、嬉しいよりも「マングースって書いて受かってりゃ世話ねーな」と心の底から思った。そして3日に受けた学校は当日に合否の判定があり、何故か受かっていた。
この事から僕が学んだことは、「手は尽くしておけば何とかなる」ということである。マングローブをマングースと書いたところで、落とすのは数点である。他で点を取れば問題は無いのである。更に、そんなボンクラでも一端の社会人として何とかご飯を食えてるし、やはり何とかなるのである。
長々と書いてきたが、結局のところ世の受験生に僕が言いたいのは、「失敗は、結局失敗じゃないから心配するな」ということと、「東南アジア・河川・植物と来たら『マングローブ』と書け」ということである。
アナルが分からなくてパワハラを受けた話
パワハラは何も生まないし、当事者にとってはとても辛いことだと思う。パワハラと対峙する時、解決するには原因を潰すしかない。パワハラの引き金となる事象を起こさないようにするか、パワハラをしてくる相手を自分から遠ざけるかである。しかし、たいていのパワハラは簡単に解決しない。となると「自分が我慢した方が良い」となりがちである。それで自分が潰れてしまっては元も子もないが、何とかなる人も中にはいる。
僕は「ガラスのハートの持ち主」と言ってはいるが、周りから見ると精神的にはタフに写るらしい。それは恐らくキツめのパワハラを受けた経験からくるものだと思うので、ここで僕が受けたパワハラを紹介したい。
時は遡ること15年ほど前。僕は高校のラグビー部員だった。ちなみに学校は都道府県の大会でベスト4くらいになることが多く、まあまあの強豪だった。ポジションはフォワードのロックをやることが多かった。ロックというポジションはスクラムの時にプロップ(一列目)の選手を押す役目の選手である。
ラグビーに限った話しではないかもしれないが、練習中、フォワードはフォワード同士で過ごす時間が多くなる。これはセットプレー(スクラム・ラインアウト)があるためだが、このセットプレーの練習が地獄だった。
パワハラをしてくるのは1個上のM先輩だった。M先輩は「○○県最強のフォワード」を自称しており、実際に身体が縦にも横にも大きく、パワーもあったため、突進してくると止められる気がしなかった。こんな逸話もある。M先輩は都道府県選抜のセレクションを欠席(サボり)で三次選考まで進んだのである。ちなみに三次選考では、審査員の予想をはるかに下回るスタミナにより落選となった。
このM先輩は僕たち後輩に厳しく、全体練習終了後に突然空気椅子をさせたり、スクワット100回を2セットを課す等、とにかく厳しかった。的にされた同級生は殴られたり、物を奪われたりと酷い扱いを受けていた。
一方の僕は「マッサージが得意」という特技を活かし、練習後のM先輩のマッサージを強制・・・ではなく、させて頂くことにより比較的良好な関係を築くことができていた。その良好な関係が崩れたのが、僕のポジション変更である。
僕はフランカー(三列目、スクラムの外側にいる人)だったが、ロックにコンバートとなった。ロックとなり、スクラムの時に僕が押す人がプロップのM先輩だったのだ。
スクラムの練習は、スクラムの姿勢を作ることから始まる。細かい説明は省くが、スクラムはまっすぐ押すことが重要であり、まっすぐ押すためには、皆が背中を丸めずに平坦にすることが大事だからである。その平坦な背中を押す側は、自分も姿勢を作りながら、相手の背骨を尻から押すことが求められる。よって肛門に肩を入れるようにしなければならない。
M先輩は身体が大きいことから、当然尻もでかい。そのため、肩がなかなか肛門を捉えられないのである。通常、キッチリ組めば、肩は自然に肛門を捉えることができる。しかしM先輩の規格外な尻は、肛門を隠してしまうのである。
その結果、僕は肛門を見失ってオロオロし、M先輩に「俺のアナルはそこじゃねえ!」といって殴られるに至ったのである。これがパワハラの幕開けである。その後もスクラムを組む度に、M先輩に「俺のアナルはそこじゃねえ!」といって殴られた。自分的に「ここがアナルだ!」と思っても、「俺のアナルはそこじゃねえ!」といって殴られた。ちなみに、練習中「そうだ、そこが俺のアナルだ」と言われることもあったが、逆に僕がしっくりくることも無かった。もしかしたら、自分がM先輩のアナルを見失っているように、M先輩も自身のアナルを見失っていたのかもしれないが、今となっては確認する術はない。
別の日、「お前アナル分かってんのか?」と言われ、壁に向かってスクラムの姿勢をさせられ、僕の肛門にM先輩が肩を入れてきたことがある。対人のスクラムでやられても肛門が痛むのに、壁は力が逃げないから余計に痛い。しかもやるのは自称「○○県最強のフォワード」ことM先輩である。「ここがアナルだ!分かるか!」「分かります!分かります!すいませんでした!」「分かれば良いんだよ!ちゃんとやれ!」「はい、すいませんでした!」。僕はヒリヒリと痛む肛門のせいで涙目になりながら、M先輩の肛門を必ず見つけることを心に誓った。
その後は、結構良い確率でM先輩の肛門を捉えることができるようになったが、それでも、たまにM先輩に「俺のアナルはそこじゃねえ」といって殴られた。これは僕が不器用だったからかもしれないが、他の先輩の肛門は百発百中で捉えられたので、やはりM先輩の規格外の尻に原因があったのだろうと思う。
他にもM先輩絡みでは色々と話しはあるが、僕が受けたパワハラとして一番印象的だった話しを紹介した。世間一般で、「俺のアナルはそこじゃねえ!」といって殴られる人はそんなに多くはないだろう。M先輩を良く思うことは無いが、こんなエピソードを僕に与えたくれたことと、少し僕をタフにしてくれたことには感謝したいと思う。
好きな自動車メーカーの話
ふと思い出したことがあるので、僕の好きな自動車メーカーの話をしたいと思う。そのメーカーとはマツダである。
基本的に嫌いなメーカーは無く、どこのメーカーの車・バイクであれ、すぐに跨がるミスター尻軽な僕だけど、その中でもマツダだけは特別なのである。「左肩に自動車メーカーのエンブレムをタトゥーで入れなきゃ死ぬ」といった状況であれば、ポルシェかフェラーリのエンブレムを入れるけど、とにかくマツダが好きなのである。ちなみに映画「トランスポーター」を観るとアウディが好きになるし、「ワイルドスピード」を観ればアメ車に乗りたくなるけど、そんな時でもマツダが好きなことは間違いない。
好きな理由は、愛車がマツダ車であることと、14歳のある経験である。今回はその経験の話をしたいと思う。
時は2003年秋、僕が14歳の時の話である。その頃、僕の家の自家用車はフォルクスワーゲン・ゴルフ2だった。父親はすごく気に入っていたが、新車で購入し10年以上経った車両は、そこそこボロく、ナビもパワーウィンドウも無い車両は家族からの評判が悪かった。ハイオクで故障した際の部品代も高いことから、特に母親からの評判が悪く、度々国産車への乗り換えを打診されていた。一方の僕はというと、13歳から集め始めた頭文字Dにハマっており、スポーツカー以外に興味はなかった。そのため、今の僕からは考えられないが、乗り換え推進派であった。
そんなこんなである日、自家用車で出掛けると排気音が異常に厳つくなっていた。なんとエキパイが腐って穴が開いていたのである。父親が修理の見積もりを取るとなかなか高額だったらしく、父親も乗り換え賛成派に改宗することとなった。
その時、候補に上がった車両はトヨタ・RAV4、ホンダ・Fit、マツダ・デミオである。RAV4はトヨタの営業さんが微妙だったため早々に脱落。Fitとデミオの一騎討ちとなった。
Fitは父親だけがディーラーに訪問。デミオは僕と父親でディーラーに訪問することになった。これは、頭文字Dにどっぷりでマツダ・RX-7が好きだった僕が、同行を強く希望したからである。
そして、晴れてマツダディーラーに行くと、ショールームには新車のRX-8が置いてあった。現車を見た僕は、デミオよりもRX-8に夢中になってしまった。営業さんは快く僕にRX-8の話をしてくれ、運転席に座らせてくれたりした。更にカタログをもらったりもした。この時、僕はほぼ絶頂を迎えたと言っても過言ではないほど嬉しかった。思わず父親にRX-8の購入を進言したが、秒で却下されてしまった。とにかく、この時の体験が僕をマツダ好きにしてしまったのである。
その後デミオに試乗することになった。助手席に乗った僕は、ダッシュボードの張り出しが気になったが、そこはただでさえ頭がお花畑の僕である。おまけに先ほどマツダ好きになってしまった僕である。父親にデミオを猛プッシュするのは当然の帰結であった。
というのが僕がマツダ好きになった理由である。今から考えると「そんなことで」と思うが、体験の価値は人によって違うのである。
後日談として、一月後、我が家に待望の新車が納車された。
それはピカピカのホンダ・フィットだった。
新宿駅の隅っこでうんこ漏らして不貞寝した話
事件当時履いていたデニムを捨てることになったので記録として残したいと思う。
10年ほど前の今くらいの時期、僕は基準+1単位で進級した理系大学の2年生だった。その日は一限から必修の実験があり、それは、ギリギリで進級した僕のような学生に遅刻は許されない科目であった。
学校は家から2時間かかることから、9時半の一限に間に合うために、最低でも7時半には家を出なければならなかったが、僕は母親という最強の目覚ましを使用し、7時過ぎには家を出ることができた。
通学にあたっては、私鉄で新宿駅に行き乗り換えをする必要があったが、新宿に近づいたとき、"それ"は唐突に僕を襲った。"それ"とは腹痛と便意である。腹痛と便意は波となって出現した。谷の部分では何も感じず穏やかこの上無かったが、山の部分では冷や汗を流し、肛門は解放を自粛すべく全力で閉めていた。新宿に到着する頃には完全に谷はデフコン5、山はデフコン1であったが、下車した際は何故か完全に平時だった。
この時、僕はまあまあ出来の悪い頭をフル回転させた。「駅のトイレに飛び込めば、1限に遅刻する可能性がある」、「しかしもう一度山が来たら大変なことになる」、「今は谷じゃないか。このまま波は無くなるかもしれない。」。ということで出た答えは「乗るしかない、このビッグウェーブに」。そう、波を乗りこなそうと判断したのである。今思えば愚策極まりないが、まあまあ出来が悪い、ギリギリで進級するような僕にはそれが良策に思えたのである。
ということで新宿駅で下車、JR線のホームに到着すると、今までに感じたことの無いほどの山を感じた。例えるなら、格闘マンガの喧嘩自慢が主人公の殺気を浴びて死を感じるのと同じような、絶望的なほどの便意を感じたのである。
「これは一度出す必要がある」本能的にそう感じた僕は、トイレを目指すことにした。しかしJR新宿駅のトイレには行ったことがないため、使い慣れた私鉄のトイレに行くことにした。
トイレにつくと、トイレの外にも2人出てる行列ができていた。その頃には波は谷の部分にきており、僕は落ち着きを取り戻していた。朝だけあってトイレの回転は早い。列は順調に短くなっていった。その間僕の後ろでは、走ってトイレに来た人が列を見て、「クソ!」と壁をブン殴ったりしていた。僕は「分かる分かる、その気持ち。俺も「クソ!」って言いたいし、クソを出したい。だがオッサンは死ぬかもしれないけど俺は生きるぞ!」等と思っていた。
しかし自分の前の待ちが2人となったとき、絶望的な便意がまた襲ってきた。「大丈夫、今回も落ち着くはず。」と自分に言い聞かせるが、一向に治まらなかった。そこで僕は閃いた。「少し出してみよう。そうすればパンツは死ぬかもしれないけど、自分の番まで待てるかもしれない。」人は窮地に追い込まれると訳の分からない選択をするものである。僕もまた、訳の分からない選択をしてしまった。
ということで肛門の非常事態宣言を解除することにした。僕の想定では、コンビニの海苔巻き1本くらい出すつもりだった。しかし、肛門には思っていた異常の便圧がかかっており、一瞬で僕は海苔巻き3本分ほどのうんこを出してしまった。うんこはパンツから溢れ、その一部はデニムの膝まで来ていた。その暖かさと、何故か爽快だった気持ちは、今でも鮮明に思い出すことができる。
こうして僕が人間の尊厳を失った時、僕の前には誰もいなくなっていた。僕は壁に寄っかかり、膝を僅かに曲げてうんこをせき止めながら、「まー出してしまったものはしょうがない。切り替えていこう。」と考えていた。そんなことを考えているとまた便意がきた。
「もう一回出してるし、さすがに我慢できるでしょ。つーかまだまだこれからっしょ!」と盤石のメンタリティでいた僕。しかし、肛門の防御力はゼロだった。「あれ?俺我慢したっけ?」と思うくらい、ノーストレスでうんこが出た。今度は海苔巻き2本分出た。当然パンツから溢れ、膝でせき止めてたうんこは、お気に入りのナイキのスニーカーの踝の部分まで来た。ここまで来ると笑うしかない。
前の個室が空き、自分の番が来た。僕は踝のうんこを落とさないように摺り足で歩き、個室に入った。ズボンを脱ぐと、全体的にうんこが付着していた。ここで運が良かったことを紹介したい、1つ目の幸運は、水っぽくはなく、「2日目のカレー」くらいの水分量だったことである。僕はデニムに付着した、前日に食べたラーメンのメンマが入ったうんこをトイレットペーパーで拭った。2つ目の幸運は、実験だったため袋に入った作業着(ツナギ)を持っていたことである。僕は袋にパンツとデニムを積め、腸の中に残ったうんこを出し、ノーパンでツナギを着た。得もいえぬ開放感を感じた。その後は、「うんこ漏らして一限もクソもないだろ。。。」と自嘲しながら、30分前に乗った電車にノーパンツナギで乗り、僕は家へと帰った。
家に帰ると母親が驚いた顔で出迎えてくれた。驚くのは当たり前である。1時間前に見送った息子が、ツナギで帰宅したわけだから。
驚き「どうしたの?」と聞く母親に、僕はぶっきらぼうに「新宿でうんこ漏らして帰ってきた。」と伝えた。すると更に驚いた母親は「パンツとズボンは?」と聞いてきたので、「袋入れて持って帰ってきた」と答えると「自分で洗いなさい!」と怒られた。当たり前である。しかし20歳にもなって、うんこ漏らして母親に「自分で洗いなさい!」と怒られるなんて、どうかしてると僕も思う。
ということで風呂場でパンツとデニムを洗った。サイズが大きくて流れなかったうんこの一部は、排水溝にねじ込んだ。
風呂場でパンツとデニムを洗って、ついでにシャワーを浴びた僕は、煙草に火を付けた。その時は、言葉に表すのは難しいけど、決してネガティブな感情ではなかったことを覚えている。
母親は「学校はどうするの?」と聞いた。僕は「病院行くわ(病院に行った証拠があれば休みが不問になるため)。前からお腹弱かったしIBS(過敏性腸症候群)だと思うし。」と答え、不貞寝した。文字通りのクソ野郎である。
そして夕方起きた僕は消化器系の病院に行きIBSと診断され、帰りにストッパ下痢止めを購入した。その後、夜はバイクで友人のところに行き、ラーメンを食べながら事の顛末を話した。「お前マジもんのクソ野郎だな。」、友人はそう言うが僕は言い返せなかった。だって僕はマジもんのクソッタレになってしまったから。
この話しを最後まで読んでしまった酔狂な人、あなたは腹痛・便意を感じたら、すぐトイレに行ってください。決して波を乗りこなそうとしないでください。その波は決して乗りこなせません。
それでも乗りこなしたいと思った人に向け、この名言を送ります。
波は神様がくれたおもちゃ。
- クレイ・マルゾ -